私の自転車と周辺紹介

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2016年5月  小宅 哲哉 (第17代・昭和49年卒)  [記事番号:b0054]
第1回三国峠ヒルクライム(1970年)の報告・結果について  (資料:b0054.pdf

昭和45(1970)年11月1日に第1回三国ヒルクライムが催行された経緯とその着順結果が、クラブ発行誌「道」第30号に掲載されています。その号に、8位までの入賞者の到着時間と所要時間がリストされている。5位までに当時の1年生が4人を占めていた。私は参加者の1人であり、その当時の状況を、記憶が薄れないうちに書きとどめておこうと思う。

その夏合宿は九州でおこなわれたのだが、1位(菅沼)と2位(菊池)の2人は、九州までソロで走って行ったので、相当脚力をつけたのであったのだろう。4位の、今は亡き森はクレバーな男で、メカにも詳しく頭脳的な走りをしていた。峠も計算して上ったのではなかったか。5位は私であった。九州の夏合宿時に、私は高校の時に乗っていた通学用自転車(ツノダの3段ギア)を使った。ヒルクライム直前に先輩から譲り受けたアルプスで参戦したのだが、その軽いこと……、5位にくいこんだ。

その晩の白木屋での発表会で、洋風の洒落たウィスキーボトルを賞品としてもらったことを覚えている。1位、2位の者は、もう自転車に乗っていない。寂しい限りだ。

先日(2016年5月22日)、14期、15期の先輩方と地元宇都宮の世界選手権コースを上ったのだが、私は常に置いて行かれた。先輩方は、どうしてそんなに強いのかを探ろうと、「道」のこの欄の結果を見て納得した。上島さん(14期)、松原さん(15期)、飯田さん(14期)とも入賞者であったのだ。地力がある人は、今でも強い。それに常時走っているのだ、偉い。それに比べて私は、軟弱になったものである。

当時の部長の報告と結果を添付しましたので、当時の事などを、思い出したらコメントをお願いいたします。

ヒルクライムについて 出走前

コメント

2016年8月 石橋 正 (第17代・昭和49年卒)   [コメント番号:m0235]
第1回三国ヒルクライムの事件簿

RCTCの一行は、今年から、クラブ行事になった “三国峠ヒルクライム” の為立教のキャンパスを出発した。1泊目の宿泊地 “飯能YH” で事件は起きた。後にいう、“飯能YH 焼肉 箸ドケドケ事件” だ。

この事件のあらましを記載する前に今はほとんど無くなってしまったYHについて、説明を加えておこう。当時は、学生が旅行を安くあげるために、全国に設立されたユースホステルを利用することが多かった。飯能YHは安いながらも、夕食は、マトンを使った焼肉だった。

男性I氏の証言によると、焼肉のテーブルは、4~5人の席で1卓を囲んだみたいだ。肉をジンギスカンの焼き網に置き、焼き具合も適当になった頃会いをみてその焼肉に箸をのばした瞬間、その箸をO氏の箸が払いのけ肉を横取りされたというのだ。ちなみに飯能YHの浴槽には “練炭” の入った木の箱が浮かんでいて、さめないようになっていたのであるが、この物珍しさの数10倍のこのショウゲキは人生、後にも先にもないと証言している。

2日目は、正丸峠のゲキ坂を越え秩父へ。1年生は、初めての激坂である。2年生になったら、荷物を減らすか、大宮のN氏のように、お金に余裕がある者は、帰ったらすぐ、パターソンズハウスにかけこみ、クロモリの自転車を買うことになる。

2日目の秩父YH(こちらも今は無い)では、強制的なミーティングなるものに出席しなければならならないのだが、その日の正丸峠の疲れと、三国峠は正丸峠の数倍キツイという先輩からの脅しの前に早いとこ疲れをとる為に就寝しなければという気持ちの方が強かったというのが1年生の大方の感想だろう。

ヒルクライムの当日、スタート地点の有料ゲートまでの沿道は、紅葉がまっさかりで、時折吹く風に落ち葉が舞い上がる。ヒルクライムのスタート前の心の高鳴りは、だれも小学校の徒競走以来だと話をしていた。三国のヒルクライムは、全長18km、標高差1000m。スタートから川に沿った部分は距離にして1/3位か。川から外れると激坂になる。途中1ケ所水飲み場がありペットボトルを持参しなかった者、またその水を飲み干してしまった者が水を補給する唯一の場所だ。

ここで事件は起きた。後に言う “三国峠 水飲み場 ゴッツアン事件” だ。ここで再度I氏に証言してもらうことにする。この水飲み場の清水の出水量が悪く、コップ1杯の水を溜めるに相当の時間を要したとの事だ。やっと溜まった水を飲もうとしたら、後から来たO氏が「イタダキ!」とばかり飲み干し「風と共に去りぬ」だったそうだ。

この2つの事件の教訓は、高度経済成長に沸く時代に営業職についた、I氏に少なからず良き影響を与えたことは、いうまでもない。その後、O氏は、夏合宿においても “ご飯 底 肉隠し事件” 等周囲の者へ、人生はサバイバルだという数々の教訓を残している。

ちなみにO氏と同期のI氏の三国峠ヒルクライムの成績は、
1971年 1年生 9位
1972年 2年生 2位
1973年 3年生 1位
1974年 4年生 ヨーロッパ自転車旅行の為不参加

2016年5月 上島 信行 (第14代・昭和46年卒)   [コメント番号:m0231]
良く古い資料を掘り出してくれました。三国は実はその前の年からやっているはずですが、その時はレース的なものではなく、紅葉を楽しむランでした。といっても峠道ですから自然に競争にはなりましたが。埼玉県や群馬県と長野県との間にはいくつも峠がありますが、いずれも長野側は緩やかな高原状の地形になっていることでしょう。峠に着くと最後の人が登ってくるまでに1時間近く待って、すっかり身体が冷えて、白木屋の風呂がありがたかったことを思い出します。

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