私の自転車と周辺紹介

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2024年2月  中村 淳 (第24代・昭和56年卒)  [記事番号:b0090]
マニアックな紀行文は歴史学かぶれ,民俗学かぶれの所為か  (資料:無し )

のっけから物議を醸す表現で異論もあるかもしれないが,このタイトル,結構ウケてくれる人がいるのではないかと自分は思っている.こんな独白(毒吐く?)のような文章をいったいどのカテゴリーに投稿したらよいのか,HP担当の自分もわからない.HPはそろそろリニューアルが必要だと思うのだが.

この文章は誰かを批判するものではない.マニアックな紀行文に自分が感じたこと,そして最終的に,自分が自転車に関する文章を書くときに心がけていることを書き留めたものだ.


学生だった1980年前後,自分にとってのサイクリング雑誌といえばサイクルスポーツ(サイスポ)か,ニューサイクリング(ニューサイ)だった.

自分は高校時代からサイスポを知っていた.サイスポの発行元の八重洲出版は当時を振り返って,「ライバル誌には1963年に創刊されたニューサイクリングがあったが,内容はかなりマニアック.それに対してサイクルスポーツは,自転車総合誌を標榜して初心者向け記事もしっかり掲載」したと書いている(サイスポ 2019年3月号 p.20.文は松本敦 元編集部員).サイスポがニューサイを名指しして意識していたことが印象に残っている.そのためもあってか,やや底が浅い感はあったものの,楽しめるものだったし,広告を含めてインターネットのない時代の貴重な情報源だった.

一方,自分はRCTCに入って実物を見るまでニューサイを知らなかった.ニューサイを読み始めて,サイスポでは読めないようなマニアックな視点による記事に熱中するようになった.

私の印象だが,ニューサイはNewではなく(まあ日本のサイクリング黎明期である昭和30年代ではサイクリング自体がNewだったのだろうが,英仏の伝統的なサイクリングを範にしたという意味で)Orthodoxだったし,Maniacでもあった.後者は,正統派サイクル ツーリストとはツーリング中に歴史学的な,または民俗学的なことがらをあれこれ思索するものだという,こだわるイメージを与えそうな記事を,ニューサイ誌面のあちこちに見かけたからだ.

実際,ニューサイに載っていた紀行文には,複数の執筆者に共通して,旅の中で見聞きしたことについての歴史探訪,伝承探訪的な記述が含まれているものが少なくなかった.しかもそれらの記述はたいていかなり長ったらしいものだった.サイスポがニューサイを意識したのと同様に,ニューサイもまた,マジョリティー指向のサイスポに対して,より格調高い路線を目指したのか,あるいは,そんな空気に執筆者が忖度したのか.いずれにせよちょっと小難しい雰囲気であった.

これはまるっきり個人的な印象なのだが,サイスポは,自動車雑誌として発行部数を誇った,やはり八重洲出版の「ドライバー」のようで,それに対してニューサイは,判型や厚さがまったくちがうが,二玄社「カーグラフィック」のようだった.もしくは,これも八重洲出版の「モーターサイクリスト」に対する枻出版社「ライダースクラブ」のようだった.これらのすべてに八重洲出版が出てきて,しかもそれらの方針が共通しているところが,八重洲出版 社主の酒井文人氏の車輪趣味のスタイルであり,考え方だったのだろう.酒井文人氏といえば,浅間火山レース,……となれば,汚れた英雄……と,どんどん話はモーターサイクルに傾きそうなので,やめておこう.

もちろん自分はニューサイの記事を全体として楽しく読んではいたが,そうした歴史学的,民俗学的記述の部分では明らかに楽しくなかった.それでも自分は若かったし,少なくとも今よりは謙虚であったから,つまらないといって読み飛ばしてしまったら,ひょっとして重要な情報を見落とすことになるかもしれないと,義務的に,ストイックにその文面を追っていた.

しかし,つまらないものは,どうしたってつまらなかった.執筆者がなぜそうした歴史学的,民俗学的なことがらに惹かれているのか,そしてそれらを考えることがいかに面白いかが,ほとんど伝わってこなかったからだ.これはもっぱら自分の理解力の不足によるものでもないと思う.執筆者には失礼だが,同人誌的記事とはそういうものだろう.導入の説明が不要なのだから(まあそれを言うと,自分の投稿記事でときどき本筋から脱線するうんちく部分も同様かもしれない.他人のことを言えた義理ではない.それと念のため言っておくと,自分は,歴史学も民俗学も嫌いではない.特に歴史は,世界史全般や,明治以降の日本史,産業遺産や遺構に興味がある).

この違和感はその後もずっと変わらなかった.しかし,ニューサイ紀行文のこうした特徴に感化された人たちもそれなりにいたのだろう.折りにつけ,ニューサイ風なサイクル ツーリング紀行文をいろいろな場で読むことがある.自分はそうした紀行文をもちろん否定しない.否定しないが,自分は書かない……というより書けない.


自分が書く自転車に関わる文章には,やはり自分の個性を出したいと思う.具体的にいえば,自転車自体に対して,または自転車旅の途中に,何を見て,何を思って,何を考えているか,を自分固有の立場で表現したい.

たとえば自転車や自転車に乗るための装備を含めたハードウェアについての話は,単にどんな仕様,どんなパーツ,どんな用品を使うかという選択の話だけではなく,その選択の結果がどんな働きをするか,それも感覚的な表現だけでなく,現象や状態をできるだけ具体的,定量的に評価し,だからその選択は成功だとか失敗だとか,新しい価値観を知ったとかを,書こうと思う.

こう言うと,パフォーマンス至上のように受けとられるかもしれないが,もちろんそうではない.その選択が美意識に多く依存しているのなら,それはそれで,その美意識を具体的に分析してみたい.あらためて書くまでもないことだが,自転車趣味において,美意識はとても高い優先度が与えられていると思う.自分が設定したハードウェアがパフォーマンス的に不利であるとしても,それが美意識の上で高いスコアを示すなら,その設定は失敗ではないのだ.それゆえの趣味である.

ツーリング中にどんな景色に注目するのか.そのとき何を思い,考えるのか.これはとても個人的なことなので,百人百様の流儀がある.直近に書いた自分の文章を読むとき,自分の流儀の説明はいらないが,10年20年後の自分が読むとき,その説明があればとても役に立つ.10年20年後の自分は,ほとんど他人と同じだ.未来の自分が理解できるように,今の自分が感じたことを整理して書きたいと思う.自分は文章を書くとき,他人がそれを読むことより,未来の自分が読むことをより強く意識している.

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